島根県が主催する平成23年度「人財塾」に参加しています。このたび第4回目が2011年10月18日~19日にかけて開催され、島根県大田市の株式会社中村ブレイスにお伺いする機会がありました。なお、2日目は、島根県内の先進企業視察などの行程が組まれていたのですが、残念ながら都合が付かず、参加できませんでした。(第1回、第2回、第3回、の様子はこちら)
今回の人財塾では、中村ブレイスの中村俊郎代表取締役のお話を伺うとともに、中村ブレイスの社内を見学させて頂くという、大変貴重な機会を頂きました。義肢・装具などを制作する中村ブレイスは、私が語るまでもない大変著名な企業ですので、その事業内容の紹介などは他に譲り、中村社長のご講演と会社の見学から、私の感じたことについて整理しておきます。
1.若者を育てる~父から受け継いだ夢を自分が実現する~
中村社長は、「若者を育てる」ということに心血を注がれています。中村社長は、高校卒業後、県外の義肢装具製作所でしばらく働き、その後米国に渡って研修生として修業、装具士としての最先端技術を習得して帰国、そして大森町に戻って一人で創業されています。創業までの経歴だけですさまじいものがありますが、一つの転機が留学で、「そのチャンスを下さった方が居たから、今の自分がある。」とおっしゃいました。そういった“チャンスを大切にする”ことを伝えていきたいという想いが、若者を育てる原動力の一つのようです。
そして、人材の育成については、このようなお話もされていました。「技術というものは、どんな学校を出ていても直ぐに仕事で使えるものではない。10年、15年かけて育てていくもの。その間に何をするかといえば、『人間を育てる』。そう思えば苦にならない」。自らの経験と地域のへの想いが強く重なり合い、中村ブレイスの、中村社長の人づくりの根底をなしているのではないかと、感じたところです。
この、「若者を育てる」という想いは、社員を育てるということだけでなく、地域全体で若者を育てるための具体的な取り組みにつながっているようです。びっくりしたのですが、中村ブレイスでは、石見銀山の町、毎年少しずつ大森町の民家を買い取り、改修を行っているそうです。これまでなんと37軒の家屋を修繕され、修繕した古民家は、大森町で若い方のギャラリーや、店として貸し出しているそうです。これも、中村社長の考える、「若者を育てる」ことの一つの形なのだと理解しています。現在、大森町を訪ねると家々が小奇麗に修繕されており、美しい街並みが形成されています。これらのうち、かなりの部分が中村ブレイスによるものだったとは、今回初めて知りました。資金的にそれができるのもすごいし、やろうと決断するのもすごいし、それを創業以来継続していることもすごい。とにかく、すごいとしか言いようがありません。
2.器量と度量~自信を持ってやっていく~
中村社長が講演や質疑応答の中で、何回か使われた言葉に「器量と度量」という表現がありました。辞書によると、器量とは「ある事をするのにふさわしい能力や人徳」、度量とは「他人の言行をよく受けいれる、広くおおらかな心」という意味です。中村社長は、講演を聴講している私たちに対し、「みなさんは既に様々な器量を持っている」、だから、「後はそれを使う度量を持ちなさい」と話して下さいました。これを聞いて、経営者と従業員の関係に置きかえたとき、腑に落ちるものがありました。例えばですが、実務的には非常に優れた能力を持った従業員が居る。ただし、態度や思考には感心しない面もあり、どうも気に入らない。しかし、経営者はそれも含めてその人を受け入れ、その上で経営者としての判断を下していく。やや次元の低い話かもしれませんが、そういったことが経営者に求められることなのだと、私なりに感じたところです。
そしてもう一つ、「自信を持ってやる」ということです。中村社長自らが、父の言葉、受け継いだ志に基づいて事業に取り組んだことも踏まえ、「一人ひとりが自分の父・母から生まれたことを誇りに持ちなさい、みなさんは父・母から受け付いたいい面(器量や度量)を持っている。」と語りかけて下さいました。それに気が付かないだけだと。気が付いた時、それが自信になる、ということだそうです。私自身、いつの頃からか、自分は自分、親は親、自分の道は自分で切り開く、という感覚を普通に思っていました。確かにそうであるけれど、やはり、自分のルーツ、受け継いできた血、といったものを受け入れることが、特に、私のように後継社長として事業を行う経営者が、自分自身の役割、何のために会社を経営しているのかを確認する原点になるのではないかと感じたところです。
3.中村ブレイスの社内見学~若く、熱気のある職場のすばらしさ~
講演後、中村ブレイスの社内を見学させて頂く機会がありました。最初は、シリコーンゴム製の人工乳房や指・手などの人工補正具を制作するメディカルアート研究所、続いて、本社に移り、義肢や装具の製作現場を見せて頂きました。この業界では当然なのでしょうが、全てが手作りで社内製。外注は一切ないそうです。
現在、約70名の職員が居て、そのほとんどが大田市の大森町の本社及びメディカルアート研究所で仕事をされています。職員の平均年齢は、30代半ばという若い会社で、職場を訪れたのはすでに17時を過ぎていましたが、職員さんの熱気・活気を感じずには居られず、その雰囲気に圧倒されました。石見銀山のある大森町は、言うまでもなく過疎の町です。ここに、70名からの若者が働く職場をつくり、社員寮などを設けてその地に定住させている。そして、みなさんが本当にいきいきと働いている熱気ある現場、この事実を目の当たりにすると、大きな衝撃、そして感動を覚えます。大変貴重な機会を頂いたと思います。
ところで、中村ブレイスというと、途上国で障害持つ方々の支援など「いいことをしている会社」というイメージがあります。もちろんそのとおりで、その取り組みは素晴らしいでのですが、それとて、本業においてきちんと利益が出る仕組みがあり、それが継続出来ているからに他なりません。中村社長は装具士という一技術者である一方、優れた経営者でもあり、教育者でもある。その人間力のすさまじさに感嘆するばかりです。
ところで、中村社長はなぜ、故郷の大田市大森町で起業されたのか。今、大森町は石見銀山の世界遺産指定や中村社長の努力などによる定住人口の増加や街並みの修復・若者のお店の立地等、賑わいがあります。講演の中で、「当時、大森町が現在のような状況であれば、私はここで起業しなかったと思う。」とおっしゃいました。中村社長は、かつては石見銀山が世界一の銀山で、銀山のある大森町が夢のある街であったという話を子どもの頃から聞かされたそうです。それが現代においては過疎で夢の無い街になった。そこで、一度世界の誇る街になったことがあるのなら、それをもう一度実現することもできるのではないか、と考えたのが、わざわざ大森町で起業された原点となっているように伺いました。この壮大な夢を描き、チャレンジする。そのための器量、度量、そして自信が、中村ブレイスの根底にあると感じます。
中村ブレイスという会社について、私が総括することなどとてもできませんが、中村社長の人づくりへの熱意、地域への愛着、世の中の役に立つ仕事づくり、それを行えるだけの利益をだせる企業づくり、これは、地域における中小企業が目指すべき高みの一つだと言って過言ではないでしょう。そんな会社が島根県にあることに誇りを持ち、その高みに少しでも近づけるよう、努力していきたいと考えています。